賭ける人 その三
たとえば最近引いたカードは「Gardening, not architecture /建築ではなく、庭を造る」。庭とは植物ありきだから、まずその声を聞かねばならない。ふと、樹勢が衰えていた窓際のエバーフレッシュの枝葉を触り、鉢を替え、根を見る。すると露のついた新芽が出てきた。何事もよく観ろと言う事か?こうして託宣カードを読み取る際、私は熊楠の「南方曼荼羅」を想起する。絡まった糸の様な曼荼羅図は物事の理らしい。一つの「因果」の系列と、別の「因果」の系列がある。必然性が無いそれらの出会いを「縁」とする。「縁に至りては一瞬に無数にあう。それが心のとめよう、体にふれようで事をおこし(起)、それより今まで続けて来たれる因果の行動が、軌道をはずれゆき、またはずれた物が、軌道に復しゆくなり」。関係ない物事同士がシンクロする際、偶然と片付けられる。でも偶然とは我々の認識の不完全性から生じると言った識者も居る。
賭ける人 その三
たとえば最近引いたカードは「Gardening, not architecture /建築ではなく、庭を造る」。庭とは植物ありきだから、まずその声を聞かねばならない。ふと、樹勢が衰えていた窓際のエバーフレッシュの枝葉を触り、鉢を替え、根を見る。すると露のついた新芽が出てきた。何事もよく観ろと言う事か?こうして託宣カードを読み取る際、私は熊楠の「南方曼荼羅」を想起する。絡まった糸の様な曼荼羅図は物事の理らしい。一つの「因果」の系列と、別の「因果」の系列がある。必然性が無いそれらの出会いを「縁」とする。「縁に至りては一瞬に無数にあう。それが心のとめよう、体にふれようで事をおこし(起)、それより今まで続けて来たれる因果の行動が、軌道をはずれゆき、またはずれた物が、軌道に復しゆくなり」。関係ない物事同士がシンクロする際、偶然と片付けられる。でも偶然とは我々の認識の不完全性から生じると言った識者も居る。