「左様ならば、ごきげんよう」 その二
『「ごきげんよう」 といわれたのをなぜか私は聞こえないふりをしていた。「さようならごきげんよう」 私は暗いところで黙って頭をさげた。俥のひびきが遠ざかって門の閉まる音がした。私は花にかくれてとめどもなく流れる涙をふいた。私はなぜなんとかいわなかったろう。どうしてひと言挨拶をしなかったろう。(「銀の匙」中勘助作)』。「お別れ」にこだわる私の心の機微は、引用したラスト二行に集約されている。すべき事をしなかったと言うこと。そこに戻ることはできないと言うこと。「銀の匙」は明治期の子供の生活をその目線のまま細々と緻密に特徴的韻律で綴った私小説だが、この件は青年期の1頁で、作品自体ここで終わっている。彼がものを言えなかったのは思慕した友達の姉様であり、子供時代そのものだったろう。「さようなら」は「左様ならば=それでは」の意の単なる接続語、「ごきげんよう」は会い・別れ何にも用いる無事の祈りである。
「左様ならば、ごきげんよう」 その二
『「ごきげんよう」 といわれたのをなぜか私は聞こえないふりをしていた。「さようならごきげんよう」 私は暗いところで黙って頭をさげた。俥のひびきが遠ざかって門の閉まる音がした。私は花にかくれてとめどもなく流れる涙をふいた。私はなぜなんとかいわなかったろう。どうしてひと言挨拶をしなかったろう。(「銀の匙」中勘助作)』。「お別れ」にこだわる私の心の機微は、引用したラスト二行に集約されている。すべき事をしなかったと言うこと。そこに戻ることはできないと言うこと。「銀の匙」は明治期の子供の生活をその目線のまま細々と緻密に特徴的韻律で綴った私小説だが、この件は青年期の1頁で、作品自体ここで終わっている。彼がものを言えなかったのは思慕した友達の姉様であり、子供時代そのものだったろう。「さようなら」は「左様ならば=それでは」の意の単なる接続語、「ごきげんよう」は会い・別れ何にも用いる無事の祈りである。