Ⅱ章:「真珠貝」の人  

観る者/表現する者

 喩えると「お能」の舞台のようなのです。「複式夢幻能」と呼ばれる曲では「ワキ=観る者」は「シテ=表現する者」の挙動について、一部始終観察します。「前シテ」は一見普通の人ですが奇妙な振る舞いが見られます。「ワキ」はそれに注目します。「中入」後、「実はこういう者である」と霊的な素性を明らかにした「前シテ」は、「後シテ」に変化しています。そこに現れ奇異な振る舞いをする訳を、謡い舞いで表現するのです。すると気が鎮まり「表現する者」の役が済んだ「後シテ」は舞台から去り、「観る者」の役が済んだ「ワキ」も去ります。いつしかお囃子や謡の役も去り舞台は「空」に戻ります。しかしまた舞台を囲む「観客」と現れては消える「演者」との関係も、「観る者」「表現する者」になっている。これは人間存在を現す普遍的な多重構造ではないでしょうか。

観る者/表現する者

 喩えると「お能」の舞台のようなのです。「複式夢幻能」と呼ばれる曲では「ワキ=観る者」は「シテ=表現する者」の挙動について、一部始終観察します。「前シテ」は一見普通の人ですが奇妙な振る舞いが見られます。「ワキ」はそれに注目します。「中入」後、「実はこういう者である」と霊的な素性を明らかにした「前シテ」は、「後シテ」に変化しています。そこに現れ奇異な振る舞いをする訳を、謡い舞いで表現するのです。すると気が鎮まり「表現する者」の役が済んだ「後シテ」は舞台から去り、「観る者」の役が済んだ「ワキ」も去ります。いつしかお囃子や謡の役も去り舞台は「空」に戻ります。しかしまた舞台を囲む「観客」と現れては消える「演者」との関係も、「観る者」「表現する者」になっている。これは人間存在を現す普遍的な多重構造ではないでしょうか。